カウンセリングや心理療法における、枠組みとは?

心理療法

この記事は、「カウンセリングや心理療法における枠」について言われていることについて、管理人自身の考察を交えてまとめてます。

  • 枠ってなに?
  • 枠にはどんなものがあるの?
  • そもそも、なぜ枠が必要なの?
  • 枠ってどうやって活用するの?

こんな疑問がある方はぜひご覧ください。

結論~枠とはなにか?~

 カウンセリングにおける「枠」とは、「相談者(クライエント)が安心して心の内を話せるようにするための、外部との仕切りであり、土台」のことだと考えられます。

「カウンセリングの場では、そこに訪れる人(以 下、クライエントとする)にとって、外部に漏れてはならない数多くの事柄が語られたり表現され たりする。それらが漏れることを避けるために、 カウンセリングに携わる者(以下、セラピストと する)は、カウンセリングの場を一定以上外側から閉じた状態に保つ必要がある。また、日常とは異なるものとしてカウンセリングの場に特有の区切りを入れることが、クライエントのこころに治療的あるいは治癒的に作用するうえで有意義であ ることは、多くの心理臨床家によって論じられて 久しい(河合, 1999; 小此木, 1990)。こうした治療・ 治癒的な設定のことを、臨床心理学では「枠」と 呼ぶ」

(引用:心理臨床における枠と関係の多層性―― 教育機関臨床を通じて―― ,p22,右列【2.臨床心理学における枠】2段落,1-14行目)

あるいは、以下のような定義もあります。

「精神分析的的心理療法における枠とは、外面的には、「面接関係やセラピストークライエント間のコミュニケーションのあり方を規定する、心理面接の基本的で恒常的なルールや要因」(鑪,1998)を指す。つまり、クライエントと心理療法をおこなっていく際の基本設定である)

(引用:holdingの観点からみた心理臨床面接における枠の機能,p78,【1 心理面接における枠】1-3行目)

つまり、大前提として、枠には「安全・安心の場づくり」という意味があるのだと考えられます。例えば、会社では気丈に振る舞っている人も、家では、だらけきっていることがあるかもしれません。

なぜか?

これは、家という枠が、その人に「外と内」を仕切っているからということになりますね。

「家や敷地も、境界線が定められて、初めてそこが「私の土地」として意識され、その内側に「home」(家、くつろぎ、家庭)が立ち現れるのである」

(引用:p80,【(1)境界のもつ産出力】,3段落,3-5行目)

 あるいは、「枠」は、「カウンセリングを日常と区別するもの」であるという発想に乗るのであれば、「非日常」を演出するものであると言う風にも言い換えることができるでしょう。この「非日常」の身近な例として「ディズニーランド」と取り上げて考えてみます。これは、カウンセリングという文脈とはことなりますが、そういう目でみてみると、かなり「構造化」された場所ではあります。そして、そういった構造がある故に、若者はその空間に没頭しているように思います。「耳付きのカチューシャ」を身に着けて、「パーク内を走り回り」、「アトラクションで絶叫する」など、「日常とは異なる自分」「日常ではだせていない自分」を表現している、あるいは、できているのかもしれません。「安心感」というものとはまた異なるのかもしれませんが、「日常との区別」という点では、効果を発揮しているように思われます。見事な区切りです。

「森岡(1991)の述べるように、空間は、区切られて境界を与えられたときに、初めて差異を生み出す。また、空間の内と外は、境界線を共有することによって「つながり」、境界を通して移動も可能となる。空間は、もし境界がなければただ何もない。空間という意識を持ちにくい。それが、境界線を引かれることによって、その境界に囲まれた部分とそれ以外とにわけられる」

(引用:心理療法における空間についてー臨床的な知をめぐってー,p80,【(1)境界のもつ産出力】2段落,1-4行目)


 「安心感」があるからこそ、「自由に振る舞える」というのは、遊戯療法の発想に近いものがあるのかもしれません。あるいは、サイコドラマも「役」や「演技」というものが、「枠」として機能しているからこそ、そこに没頭できるのかもしれません。

とすると、ここまでの話で2つの可能性が考えられます。

 1つは、やはり、枠には安心感をうみだす作用があるということです。家の例にしろ、ディズニーの例にしろ、確かにその点は共通しているように思います。2つめは、枠には、治療者の意図や思惑があらわれるということです。というのも、家とディズニーの大きな違いとして、「楽しさ」の生産が挙げられます。正直、家にいるのも僕は好きですが、「楽しい」というイメージはあまりないですかね。楽しい時もありますが、まあ、ディズニーの場合は、主目的がエンタメなので。そして、やはり、「ディズニー」には、「楽しさの演出をする」といった構造になっていると言えます。これが、「枠」には、「設定者の意図や思惑があらわれる」ということです。

治療構造と枠の違い

ちなみに、「枠」と混同しやすい概念として、「治療構造」がありますが、治療構造は、より広い包含的な概念としてここでは扱っています。

小此木(1990)は、精神分析的心理療法における枠を「治療構造」と呼び、①面接の時間や場所などのように面接者が意図的に設定する要因に加えて、②各々の職場特有の物理的・制度的制約といった予め与えられている要因、③面接者の服装や調度品、④面接室外の諸条件などクライエンの心的リアリティの中で形成される要因も含めている

(引用:holdingの観点からみた心理臨床面接における枠の機能,p79,2段落,1-4行目)

そして、この記事では、あくまで「枠」という視点で話をすすめていくことにします。

枠=安心感ではない?

以上の前提を踏まえ、この記事を書きながら思ったのは、必ずしも「安心感をもたらなさない枠」もあるということです。

例えば、「戦いの場」という言葉があります。

これも1つの空間を示す表現ではないでしょうか?

これは、例えば、スポーツのような勝負ごととか、時には、「受験戦争」とか、賭け事をやってる人なんかもそういう言葉を使ったりすることがあります。

あるいは、ロシアやウクライナのように、世界では悲しいことに「戦場」といった参事が繰り広げられるような空間もあります。

これは、「安心感」とは程遠い、むしろ真逆の空間であるわけです。

しかし、戦う人からすると、スポーツだったりしたら、観客が入ってくるような空間であったとしたら、試合に集中できません。

あるいは、戦場だったら「民間人を傷つけずにすむ」とか「これで安心して戦える」みたいな発想になることもあるでしょう。

なので、これは難しいところですが、「枠」というものは、その枠内にいる人たちにとっては、何かしらの営みを行う上での土台になっているのではないでしょうか

「枠(線引き)」があることが、「その空間を意識すること」に繋がり、それによってもたらされる「何かしらの感覚」があるということはどうやら言えそうです。

ただ、その文脈や目的、あるいは立場によって、その意味合いは変わってくるということでしょう。

だからこそ、枠の設定者は、「枠がある事の意味」をよく理解し、「なぜ枠をつけるのか?」「なぜその枠設定なのか?」をよく考えて使わなくてはいけないのではないでしょうか。

具体的な枠の内容

以上を踏まえて、具体的な枠として機能する要素について考えてみます。

以下は論文でと取り上げられていた内容を一目でわかるように整理したものです。

 大きく、外的な枠と内的な枠に分類され、その2つがさらに細分化されているようにイメージするとよいかもしれません。気になる項目の仔細は論文を辿って頂くのが良いと思うのですが、個人的には、「セラピストの態度=枠」という視点をもっていなかったのでこのあたりは論文を読んで学びがありました。

スーパービジョンの弊害として、「セラピストが関わりを変えてしまう」点をよく耳にしますが、これはそのような点と関連が深いように思います。

 例えば、枠には、「安心感を生み出す」といった機能の他にも、いくつか機能があると思うのですが、僕が個人的に気にしているのは「ズレを捉える」といった点です。具体的に言うと、継続面接を設定する時には、基本的に「時間と曜日」を統一します。これは、「外的な枠」ですが、「ズレを捉える」という点では、十分に機能します。つまり、「毎週水曜日の15時」という枠設定の仕方をしたとします。この枠でずっと来談し続けていたクライエントがキャンセルをしたとしましょう。そして、次の面接で・・・

「すみません、すっかり忘れてました」なんて言ったら、え?

今までずっと来れてたのに?

なんてことを思います。

つまり、その前の面接で侵襲的ななにかがあったのか、それとも、私生活の中で何か動きがあったのかとか、色々考えられますが、とにかく「ズレを捉える」という点では十分機能しています。

では、次のような場合どうでしょうか?

 例えば、通常「水曜日の15:00」で確保していた枠が、急遽他のクライエントがその枠にはいってきてしまった場合です。このような事情で従来の枠を「水曜の12:00」に変更したとしたら、先ほどのようにクライエントが「すみません、すっかり忘れてました」とキャンセルをしたとしても、それは、「ズレを捉える」という点では、分かりづらいのではないでしょうか?なぜなら、「本当に忘れてた可能性も排除できない」可能性が高いからです。

カウンセラーの関わりも枠

 以上を踏まえると、カウンセラーの「かかわり方」といった要素も十分「枠」の機能を果たすことでしょう。もしかしたら、先ほどの論文で言っている「セラピストの態度」と僕がここで話している「かかわり方」は異なる質のものかもしれませんが、とりあえずその範疇にあるという前提で話を進めます。

ここで1番伝えたいのは、「カウンセラーの関わり方も、枠として機能する」ということです。

具体的には、「一貫性を持つ」ことでそのようになると考えられます。

つまり、「傾聴的」とか、「助言的」とかそんな意味合いです。

ただ、相談者とのやりとりというのは生ものなので、厳密にいうと、「傾聴的」な中で「助言をする」こともあるでしょうから、難しいのですが、「基本スタンス」ということですね。この「基本スタンス」こそ、つまり「一貫性」です。そして、この「一貫性」があることで「ズレ」は感じ取りやすくなります。

例えば・・・

「先生は、いつも話をきくだけで、何にも役に立つことは言ってくれないですよね」

なんてことを相談者が言ってきたとしたら

「え、いつもこのスタンスじゃん?」

「どうした急に?なにかあったんか?」

という話になるわけです。

ただし、リスクもあります。それが、先ほど触れた「スーパービジョンの弊害」です。

例えば、いつも「傾聴に徹していた」カウンセラーが、「急に助言をする」といったことをしだしたら、相談者は・・・

「え、いつも、私が聞いたときにしか、助言くれないのに」

「どうしたの急に?」

なんてことになるかもしれません。

これは、言い換えれば、カウンセラーが自分で作った枠を自ら壊していることに他なりません。そして、枠には、どんな機能があったでしょうか?そう、「安心感の醸成」でしたね。つまり、相談者の安心感を損なってしまうことにも繋がるということです。

なぜ、そんなことが起きるのか?

では、カウンセラーが自ら設定した枠を自分で壊すという奇怪なことが起きるでしょうか。それは、SVで「こうしたらどうか?」「ここが足りないんじゃない?」のように、助言を受けることになるからです。例えば・・・

「この人には内省促すというより、心理教育的な感じなのでは?」

なんてことをバイザーに言われたとしたら、それを意識するでしょうから、それがカウンセラーの関わりに変化を与えるということです。カウンセリングという営みが、「言葉による影響」を前提にしているのだとすれば、SVにもそのような影響があるというのは当然のことでしょう。

ただ、「自ら設定した枠を、自ら壊す」というのは、ある意味、未熟さのあらわれでもあるように思います。言ってしまえば、「SVでの助言」を「抱えておけない」からです。相談者が「葛藤を抱えきれない」時に、行動化とか身体化するように、僕たちカウンセラーも同じようなことを経験してるということでしょう。その結果、「枠からずれる」という現象が起きるわけです。なので、理想は「SVでのやりとりを抱えておけるようになる」ということではないかと思います。例えば・・

「あ、これがSVで指摘された、心理教育をする場面なのかも」

とか思ったとしても、安易にそれを実行するのは良くないということですね。

「先生からは、そういわれたけど、ここで助言するのはどうなのだろうか?」

ぐらいの、自分自身への疑いはもっておくべきでしょう。

だから、SVでは色々いわれたけれど、そこで思考停止せずに、本当にこの人にはそれが必要なのか?有効なのか?自分が実行したいだけなのではないか?思考を放棄しない姿勢は大事なのでしょう。

そして、これらのことから言えるのは、「枠」というのは、カウンセラー自身のズレを捉えるためのバロメーターでもあるということですね。

枠をうみだす

こんな記事を書いているがゆえに、思ったことがあります。

それは、「カウンセラーがコントロールする枠」と「相談者自身が、すでに持っている枠」があるということです。まず、「カウンセラーがコントロールする枠」というのは、オーソドックスな枠であり、時間とか、料金とか、そういったものもそうですが、ここではもう少し物理的な枠の話をしたと思います。なぜなら、「ズレを捉える」という点ではわかりやすいからです。そして、「物理的な枠」の具体例として「座席」があります。

例えば、面接室が↓↓こういう配置になっている場合をイメージします。

これは、手前がカウンセラー、向かい側がクライエントが座る座席を想定しています。クライエント側に2席あるのは、通常、必ずしも面接室にくるのが、一人ではないことを想定しているからです。ただ、個別カウンセリングの場合、通常、カウンセラーがこの位置に座っていれば、多くの人は、まあ、↓↓こう座るのではないでしょうか?

そして、これまでのカウンセリングではずっとこの配置だったクライエントさんが

↓↓こんな風に座ったとしたらどうでしょうか?

ね?

「ズレを感知する」という意味では、わかりやすいでしょう?

つまり、あえて「椅子を2つ配置しておく」というのは、ある意味枠になりえるのだと考えられます。

相談者がすでにもっている枠

あるいは、相談者がすでに持っている枠として、これもまた物理的なものですが、「服装や髪型」などの外見的な要素が挙げられます。

正直、これは小此木のいう治療構造の③面接者の服装や調度品に該当しますが、カウンセラーが活用できる範疇ということで取り上げています。

例えば、先ほどの相談者のデフォルトの外見がこんなだとします↓↓

しかし、とある日には↓↓こんなだったとします。

はい、あなたはどう思うか?

ということです。

「どうした?仕事帰りなんか?就活しだしたんか?」

と思うわけです。

もしこの相談者が「仕事したくないんです」

なんって言ってる人だったら、なおさらびっくりなわけですよ。

なんなら、唐突すぎて、ちょっと落ち着けとか思ってしまいそうなぐらいです。

枠からズレることの意味

ということで、ここまで「枠」の1つの機能として、「相談者のズレ」を捉える点を挙げてきました。ただ、「ズレ」ときくとネガティブなイメージが付きまとうかもしれませんが、必ずしもそうではないということは意識しておく必要があるように思います。

 村瀬(1981)は「治療構造、制限をただひたすらに当然のこととして安易に守るのではなく、個々の患者の治療目標、そのときの状況に合わせて、制限のもつ本質的意味を問い直し、制限をあえて超えるということによって生じる構造規定的な緊張関係のなかから、予期しない新たな治療的展開が生ずる場合もある」と述べている。

(引用:心理臨床における枠と関係の多層性―― 教育機関臨床を通じて―― ,p22,右列【3.枠をやぶること】2段落,2-8行目)

つまり、大事なのは、「枠のズレ」に気づいた時に、その意味について話し合うことではないでしょうか。

なぜ、その枠が必要なのか?

さて、いかがでしたでしょうか。

「なぜ枠が必要なのか?」という問いについて、ここまで私なりに述べてきましたが、最後に「なぜ、その枠が必要なのか?」といった問いについても触れておきます。そして、その答えは「事例ごとに異なる」という一言に尽きると思います。

大切なのは、枠そのものではなく「その枠をどうして設定するのか」という意図を明確にしておく姿勢でしょう。

 村瀬(1981)は「治療構造、制限をただひたすらに当然のこととして安易に守るのではなく、個々の患者の治療目標、そのときの状況に合わせて、制限のもつ本質的意味を問い直し、制限をあえて超えるということによって生じる構造規定的な緊張関係のなかから、予期しない新たな治療的展開が生ずる場合もある」と述べている。

(引用:心理臨床における枠と関係の多層性―― 教育機関臨床を通じて―― ,p22,右列【3.枠をやぶること】2段落,2-8行目)

「先に来るのは、技法ではなく目の前のクライエントだ」という言葉がありますが、枠の設定もまた同じでしょう。

枠ありきではなく、「目の前のクライエント」に即して枠のあり方を考える姿勢こそが、臨床における「なぜ枠が必要なのか」という問いへの答えなのではないでしょうか。

その姿勢を忘れないカウンセラーでありたいと思います。

参考

この記事を作成するにあたって参考にした論文を掲載しておきます。

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